田中さん、からだは弱そうだけどね(*´ω`*)

1 湛然 ★ :2021/09/24(金) 05:20:44.38

X‐GUN「ボキャブラ世代」番組ブームの裏側と、爆笑問題・田中裕二の“スゴさ”
2021年9月23日 21時0分 週刊女性PRIME
https://news.yahoo.co.jp/articles/ab863eab00ae838aa1dc90580e94ed58bcd42bd3
『X‐GUN』西尾季隆(左)、さがね正裕

(出典 amd-pctr.c.yimg.jp)



さがね正裕(以下、さがね)「当時は常にダジャレを考えている状態でしたね」

 放送当初は視聴者投稿番組としてスタートした『ボキャブラ天国』(フジテレビ系)。何度かのマイナーチェンジを経て、1997年から“キャブラー”と呼ばれる若手芸人たちがダジャレネタで競うスタイルになったことで、大ブームに。そんな人気番組で1回も休むことなく番組を盛り上げたのが、X-GUN(バツグン)の2人。

さがね「ボキャブラネタは番組が用意した用紙に箇条書きでフリになるコント部分を書き、最後に言い換える前の言葉とダジャレになる言葉を書く……という方法で作っていました。当時はメールもなかったので、相方とそれぞれ何十枚も手書きして、毎回番組スタッフにFAXで送っていましたね」

西尾季隆(ひでたか)(以下、西尾)「何十個と送った中から厳選された7~8本を収録するのですが、放送されるのは3~4本。相方と自分のネタのどちらが多く採用されたか覚えていないぐらい、とにかく大変でした。ボツになったものも含めると番組終了までにそれぞれ1000本はネタを作ったんじゃないかな」

 スタジオのひな壇に座れる“メジャー”と“チャレンジャー”の入れ替え戦も、番組の見どころの1つ。

西尾「メジャーにいる芸人にかみつくなどテレビに映る方法はあったので、チャレンジャーに落ちてもあまり気にはしなかったですね。ただ、チャレンジャーはカメラが回っていないところでもスタジオの外で立ちっぱなしだったので、体力的にはしんどかったです(笑)」

さがね「自分たちの中では渾身(こんしん)の出来のものがスタジオではウケなかったり、その逆もあったり。ボキャブラネタに関しては最後まで正解がわからなかったですね」

◆流行語「だっちゅーの」はスタッフが

 当時は珍しかった、若いアイドル2人が組んだ『パイレーツ』が番組からブレイク。プロの芸人は、彼女たちの存在をどのように思っていたのか?

さがね「本当にイマドキの女の子たちで、僕らから見たらただの子どもでした。事務所にやらされている感が満載で大変そうだなって(笑)」

西尾「流行語になった“だっちゅーの”という胸を寄せるギャグも、番組スタッフが考えたものだったそうですから」

さがね「完全に別枠という認識だったので、僕らより彼女たちがウケてもまったく悔しくはなかったですね」

 そんな2人が、当時から一目置いていたのが爆笑問題。

西尾「本ネタの漫才だけでなく、ボキャブラネタも抜群に面白かったので、さすがだなって。大ウケするともらえる大座布団をすぐに10枚集めて初代名人になりました*」

さがね「漫才は太田(光)さんが作っているのですが、ボキャブラ用のネタはすべて田中(裕二)さんが作っていたんだよね」

西尾「だから太田さんに会ったときは、“今の爆笑問題があるのは、田中さんのおかげ”とよく言います(笑)。もともと実力は飛び抜けていたけど、この番組で2人を知った視聴者も多いと思うので、田中さんの功績は偉大!」

芸人がアイドル級の人気に

 キャブラーが集結した1997年に富士急ハイランドで行われたイベントには、約1万人のファンが集まるなど社会現象に。当時の盛り上がりをどう感じていたのだろうか。

西尾「芸人の間では意見が二極化していましたね。黄色い歓声が挙がって、ネタをちゃんと見てもらえない……と悩むタイプと、アイドル的な人気を楽しむタイプ。僕らは後者でした(笑)」

さがね「若い女の子たちにキャーキャー言ってもらえるなんて、普通に生きていたらありえないですから」

西尾「僕は当時からデブキャラで単体では人気はなかったので、相方の人気のおこぼれで“トシちゃん気分”を堪能していましたね(笑)」


【『爆笑問題・田中裕二』 X‐GUN「ボキャブラ世代」番組ブームの裏側wwwwwwwwww】の続きを読む